2001年2月18日
礼拝説教題 「道を開くために」
創世記32:23〜31、ローマ28:31〜32
神が味方でいてくださることを本当に知った時、閉ざされていると思っていた道が開かれました。
それまで、恐ろしくて後ろに隠れることしかできなかったヤコブでしたが、先頭に進み出ました。
彼は、神さまが自分と共にいて、自分を守り、見捨てないと語ってくださったことを知っていました。
それでも、目の前にせまっている問題の大きさを見て、恐怖と不安の虜になっていました。
彼が神様の言葉を本当に自分のものとしたのは、神と一晩中格闘することによってでした。
神は、ヤコブと一晩中格闘してくださった。神の言葉を信じきれず、恐れて進めない者の相手に
神がなってくださったのです。そもそも、神のほうから歩み寄ってくださらなければ、格闘にもなりません。
格闘ができるのは、神が見捨てておられないということです。この格闘は、祈りの格闘です。
詩篇の詩人たちやヨブなど、旧約には、祈りの格闘によって神の備えてくださった道を
見いだすようになった多くの信仰者たちが記されています。私たちもそうです。
祈りの中で、また祈りつつ聖書を読むときに、神が敵ではなく味方であることをはっきり知らされます。
格闘の中で「ヤコブが神と人と闘って勝った。」と言われます。不思議な言葉です。
本当ならば神が負けることなどありえないからです。それではどうして、負けたのでしょうか。
それはヤコブの祝福を与えるためです。神はあえて負けてくださる。
神さまの立場を揺るがしてまで、祝福をもたらそうとしてくださるのです。
その究極が、わたしたちの罪を赦すために独り子を十字架につけてしまわれたところにあります。
祈りの格闘の中で、神が私たちのことをどんなに深く捕らえ、愛しておられるかを知らされます。
ヤコブが勝った人とは、自分自身でした。自分自身が砕かれた時に、
はじめて神の力によって進む者となりました。そのように変わったときに、道は開かれました。